オーストリア海軍の歴史 その2

 オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント皇太子(1863〜1914年)は、肺結核の転地療養の目的もあって、1892年12月15日にアドリ海の軍港トリエステを帝国海軍の巡洋艦エリザベート皇后号(4000トン)に乗って出発し、世界一周の親善旅行に向かった。インド、スリランカシンガポールインドネシア、オーストラリア、日本、カナダ、アメリカを周わる大旅行であった。
 言うまでもなく、エリザベート皇后(1898年9月に暗殺される)が最愛の息子ルドルフを謎の心中事件(1889年)で失った後、皇太子になったのがフランツ・ヨーゼフの甥に当たるフェルディナントである。
 彼は、1893年に来日し、3週間ほど滞在。日本を大いに気に入ったという。彼の日本びいきは帰国後も続き、世界遺産でもあるシェーンブルン宮殿内にロンドン万博で話題となった“日本庭園”を作る際にも大いに尽力した。
日本滞在中に、現存する最古のインターナショナルスクールである横浜のサンモール インターナショナルスクール(1872年設立)を、エリザベート皇后号の軍楽隊が訪れチャリティ・コンサートを開いたという記録も同校のA Short School History http://www.stmaur.ac.jp/about/history/history.htmlに書き記されている。
 チェコには彼が住んだコノピシュチェ城が残されており、彼自身が仕留めた狩りの獲物の膨大な数の剥製が飾られ、プラハ郊外の古城巡りのハイライトともなっているが、この遠洋航海の途中で仕留めた獲物も含まれている。
 フェルディナントは1914年にサラエヴォで妻とともに暗殺され、それが第一次大戦の引き金となった。フェルディナントについては英語サイトFranz Ferdinand of Austria-Este http://www.btinternet.com/~j.pasteur/FFINDEX.htmlに詳しく書かれている。
 一方、この訪問の後の1900年に「サウンド・オブ・ミュージック」に登場する後のトラップ海軍大佐は、海軍大学を卒業後の訓練航海で「マリア・テレジア皇后・女王号」(マリア・テレジア神聖ローマ帝国皇帝の皇后でありかつオーストリアの女王であった)に乗船し、中国で義和団事件に遭遇し、海兵隊の一員として陸上戦にも参加し、功績を挙げ“第2級勇猛銀勲章”を受勲した。なお、慣習的に“トラップ海軍大佐”と呼んでいるが、正確には彼の退役時の階級Korvettenkapitänは海軍少佐。アメリカ海軍ではCaptainは大佐なので、映画関係者が勘違いしたのだろうか。
Austro-Hungarian Cruisers http://www.battleships-cruisers.co.uk/cruisers2.htm には、「エリザベート皇后号」の同型艦「フランツ・ヨーゼフ皇帝号」と「マリア・テレジア皇后・女王号」の写真が掲載されている。
 また、“失われたオーストリア海軍の歴史についての”ブログ・サイト「HAUSの航海記」http://aahaus.exblog.jp/には、「義和団事変とオーストリア海軍」のページhttp://aahaus.exblog.jp/i9がある。

Habsburgs groesste Liebesgeschichte. Franz Ferdinand und Sophie

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