1974年の欧州鉄道旅行を今一度 その6

 74年の旅では、フィレンツェを3月13日15:09発の「オーストリア・イタリー・エクスプレス」で発ち、翌日の06:50にウィーン南駅に着いた。
来年の旅では、フィレンツェ22:14発の夜行寝台列車「トスカ号」で、翌朝08:52ウィーン南駅着にしようと思うが、沿線の景色が美しいので昼間の列車にしようかとも迷っている。昼間であれば、フィレンツェ11:27分発の新幹線EuroStarで14:06ヴェネツィア(メストレ駅)着、14:56発の「ヨハン・シュトラウス号」に乗り換えて、同日の21:44ウィーン南駅着という列車がある。

ウィーンでも「$10 a Day in Europe」http://www.frommers.com/でホテルを探し。Hotel Austria http://www.hotelaustria-wien.at/に泊まった。確か、本を見せると割引があり、1泊朝食付きバス・トイレ共同で212シリング(1シリング=約14円)だった。ここは、ウィーン最古のレストラン「グリーヒェンバイスル」http://www.griechenbeisl.at/lang_en/page.asp/index.htmや空港からのリムジンバスが発着するシュヴェーデンプラッツにも近いので、来年の旅でも利用することにしたい。

3月とは言え、日中は冬独特の重苦しい雲が覆い、寒さもひとしおだった。早朝のウィーンをオリエンテーション代わりに市電で行ったり来たりしたのを覚えている。一度は、環状線に乗ったつもりが、プラター公園の観覧車の先まで連れて行かれてしまった。寒風に吹きさらされるデッキが付いた木製の旧型車両も現役だった。当時のメモでは、1日乗り放題の交通パスが25シリング。ウィーンの公共交通網のサイトhttp://www.wienerlinien.at/を見ると現在、1日乗り放題パスは€ 5,70 だ。

 ウィーンでは、美術史博物館http://www.khm.at/のほか、当時日本でも人気の“ウィーン幻想派(Wiener Schule des fantastischen Realism)”の絵画を展示していたオーストリア・ギャラリーhttp://www.belvedere.at/などを見て歩いた。
実は、このときは、初めての海外旅行でもあり、ものおじしてしまい、一回も音楽会に行かなかった。マーラーの墓参りをしたり、ハイリゲンシュタットにベートーヴェンの足跡を訪ねたりしたのだから、クラシック音楽に興味があったことには変わりない。もったいないことをしたものだと未だに後悔している。
その苦い経験から、ウィーンに行く友には、たとえわずかな滞在でも、ぜひ音楽の魅力を堪能してもらいたいと思っている。拙著「ウィーン旅の雑学ノート」は、その友のために書きまとめた「音楽事情」や「演目の事前チェック」、「チケット入手法」のメモもまとめ直して書かせてもらった。ただし、どうしても、「書いてはならない極秘テクニック」は婉曲な表現に留めさせてもらった。

なお、その後1976年9月〜1979年10月まで、3年間ウィーンに住んだときの鑑賞したコンサート記録は、当欄の「ウィーン音楽会鑑賞記録」http://d.hatena.ne.jp/Europedia/20040201に掲載させてもらっている。

ウィーン 旅の雑学ノート―ハプスブルクの迷宮を極める

ウィーン 旅の雑学ノート―ハプスブルクの迷宮を極める

前にも書いたが、当初はウィーンからムンク美術館のあるノルウェーオスロへ足をのばす予定にしていたが、あまりの寒さに計画を変更し、ウィーンには2泊しただけで居心地のよかったフィレンツェに逃げ戻ってしまった。
 来年の旅では、帰路は、3月24日(月)13:55 ウィーン発のNH286便で、翌日09:30成田着という、予定を立てた。計画を連載させてもらっているうちにフィレンツェに逃げ戻らなくて済むよう、出発を3月中旬にずらせてみようかとも考え直し始めた。
 いずれにしろ、来年のことどうなることやら。


 最後に、拙著「フィレンツェ旅の雑学ノート」から少し引用させてもらおう。

 なにやら街の様子が違うことに気づいたのはこのときだった。3月17日の朝、屋根に雪を残したウィーンからの夜行列車でフィレンツェに戻ってきてみると、この1週間のあいだに、フィレンツェにはすっかり春が訪れていたのである。私は目の前の光景がすぐには信じられなかった。だが、駅舎の赤レンガの壁の蔦には花が咲き乱れ、日差しはまばゆいばかりだった。ベルヴェデーレ要塞の丘に登ると、上半身裸の若者たちが芝生で日光浴を楽しんでいるではないか。彼方に見えるドゥオーモの大円蓋は春の陽に輝き、街には安息日を告げる鐘の音が鳴り響いている。
それはまさに、フィレンツェを象徴する女神フローラを、西風のひと吹きで春に変貌させる場面を描いたボッティチェッリの傑作、「春」そのものだった。そして、あらためて美術館を巡ってみると、最初に見たときの印象とは異なり、ひとつひとつの絵が冬の時代を耐え抜き、春を生きる悦びに酔いしれているかのように見えてきた。人並みに青春の悩みを抱えて旅していた私にとって、再び対面したボッティチェッリの「春」が「悩むのをしばし止め、短い春が過ぎぬうちに私たちの宴に加わって人生を謳歌しないか」と私に呼びかけているように思えてならなかった。
 春の息吹に導かれるようにしてフィレンツェの裏町を浮かれ歩いた私は、この時はじめてフィレンツェが単なるルネッサンス芸術の古都ではないことに気づいた。市場で交わされる売り買いの高らかな声、安食堂で酌み交わされるワインの杯、職人街の槌音の響き、あるいは街外れのオリーヴ畑の緑、野の花々の放つ馥郁とした香り、黄昏時の丘からの眺め、ロードレース用の優美な自転車が疾駆する姿。それらひとつひとつに、私は言いしれぬ喜びを感じた。
この最初の旅で、私はフィレンツェの虜になった。気がついてみると、エトルリアの昔から脈々約と培われてきたフィレンツェの庶民文化―日常生活の中に生きる喜びを求めるその文化に、私は魅了されてしまっていたのだ。その後四半世紀の間に、四十数回にも及ぶことになった私のフィレンツェ通いは、こうして始まった。

☆右上の写真は、ウィーン最古のレストラン「グリーヒェンバイスル」

フィレンツェ 旅の雑学ノート―メディチ家の舞台裏をのぞく

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