オーストリア海軍の歴史 その3

日本海軍はオーストリア海軍と2度戦ったことがある。今日は、その1度目について取り上げたい。
 フェルディナントは1914年にサラエヴォで妻とともに暗殺され、それが第一次大戦の引き金となった。
フェルディナントが暗殺された際に着用していた軍服と車はウィーンのベルヴェレーデ宮殿近くの軍事史博物館http://www.hgm.or.at/に展示されている。日本文学者のドナルド・キーン氏はその展示を子供の頃に見て深く感動したという。軍事史博物館には「サウンド・オブ・ミュージック」のモデルとなり、第一次大戦中は巡洋艦や潜水艦を撃沈するなどの功績を挙げたトラップ海軍大佐の軍服も収蔵されているそうだ。
 歴史の皮肉と言うべきか、フェルディナントが日本親善旅行の際に乗った「エリザベート皇后号」は、その時たまたまアジア親善訪問の途にあり、ドイツの租借地青島付近の膠州湾内に碇を降ろしていた。
 8月23日、日本は日英同盟に基づき連合国の一員としてドイツに宣戦布告した。しかし、ドイツ東洋艦隊のシュペール提督は開戦後すぐに港内封鎖を恐れて戦場を離脱しドイツ本国へ向かった。結局、ドイツにはたどり着けず、南米フォークランド沖海戦イギリス海軍と戦い全滅する。
 当初、日本と交戦状態になかったオーストリアの「エリザベート皇后号」は日本の好意的勧告もあって、上海で武装解除し戦時抑留の処置を受ける積もりであった。ところが、8月26日に、オーストリア=ハンガリー帝国は日本に宣戦を布告し、「皇后号」の司令官はドイツの青島要塞守備に参加するよう命令を下された。 
 日本軍の総攻撃が10月31日に開始され、青島要塞は砲弾が尽き始め徐々に沈黙していく。11月2日、戦況の絶望的状況を見極めた「エリザベート皇后号」は青島の膠州湾内に自ら艦を沈める。11月7日には、ドイツ軍は日本軍に降伏して青島を明け渡した。
このとき捕虜となったオーストリア・ハンガリー帝国兵は400名前後と思われるが、そのうちの226名は兵庫県加西郡富合村の陸軍演習場に新築して開設された青野ケ原収容所に収容された。
捕虜については「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」http://homepage3.nifty.com/akagaki/indexb.htmlに名簿に至までの詳細が掲載されている。また、「年表」http://homepage3.nifty.com/akagaki/nenpyo.htmlや青野ケ原収容所 http://homepage3.nifty.com/akagaki/dataaono.htmlのページもある。
 「青野ケ原収容所の中にはオーケストラ楽団やコーラスグループ、演劇グループがあった」とあるから、映画「バルトの楽園http://www.bart-movie.jp/で描かれているような、演奏会がここでも行われていたに違いない。なぜなら、「その2」でもふれたように、1893年の来日時に「エリザベート皇后号」の軍楽隊は、横浜でチャリティ・コンサートを開いたほどの腕前だったのだから。
 なお、「日本とオーストリアのたった一度の戦争」http://homepage2.nifty.com/TAMACHAN/Qingwar.htm というホームページには「青島要塞攻防戦」の詳細とともに、青島沖で戦う「エリーザベト」号の彩色絵葉書が掲載されている。
最後に個人的な思い出を。母から、神戸のカナディアン・アカデミーという学校で第一次大戦前後、捕虜や移住者としてパンやケーキ、チョコレート作りを日本に伝えたフロイントリープ、ユーハイムモロゾフの子供たちと同級だったと聞いたことがある。母方の祖父や曾祖父が埋葬されている神戸市立外国人墓地http://www.city.kobe.jp/cityoffice/30/044/gaikokujinbochi.htmに墓参に行ったとき、祖父の墓のすぐ近くにフロイントリープ、モロゾフ家の墓があったのを思い出した。
 なお、海外の外人墓地をお参りし、清掃・献花等を行うのは各国の在外公館の駐在武官の務めとされているようだ。祖父たちの墓のあるイタリア人地区もイタリア大使館駐在武官が年に2回墓参りに来てくれていると聞いた。
☆右上の写真は 六甲山の再度公園内にある神戸市立外国人墓地

第一次世界大戦と日本海軍―外交と軍事との連接

第一次世界大戦と日本海軍―外交と軍事との連接