支倉遣欧使節団のサン・ファン号と「松島」を訪ねて

 先週土曜日の仙台での「旅講座」を終えてから、石巻に1泊し、支倉遣欧使節団のサン・ファン号を復元した木造船を中心とする「宮城県慶長使節船ミュージアムhttp://www.santjuan.or.jp/を訪ね、ついでに生牡蠣と秋刀魚の刺身を存分に味わってきた。
 JR東日本http://www.jreast.co.jp/の「土・日きっぷ」を使っての「出張」だったので、本来の日帰りを1泊2日の旅に変えても交通費の追加負担はなかった。サン・ファン号は、JR石巻線渡波駅から万石橋を渡った牡鹿半島の根本にあり、徒歩で25分ほどかかった。
着いてみると、広大な敷地に展示館やイベント広場、ステージ、コンピューターシミュレーション、“船酔い”まで味わえるシミュレーションシアター、ジオラマ、ライブラリーなども完備する充実したミュージアムであることに驚かされた。

 サン・フアン・バウティスタ号(洗礼者聖ヨハネという意味 推定500トン)は、1613年10月27日総勢180人以上の侍や商人を中心とする日本人を乗せ、遥かローマを目指しミュージアムの近くの月の浦を出帆して太平洋を東に向かった。90日間の航海の後1614年の1月、当時スペイン領だったメキシコのアカプルコに入港しようとしたが、予告無しの突然の入港。しかも、明らかにスペインのものとは異なる日本で独自に建造した帆船だったので、最初は敵船かと警戒されたとようだ。そこで、掲げたのがハプスブルク家の双頭の鷲の旗。1516年から1713年までの約200年間スペインはハプスブルク家が治めており、当時の国王フェリペ3世もハプスブルク家の人間だ。ミュージアムジオラマ模型にも双頭の鷲の旗を掲げている姿が史実に基づいて再現されていた。

支倉遣欧使節団とスペインとの関係については、スペインのアンダルシア州政府が日本とアンダルシアの絆を深める為に作り上げた活動機関“アミーゴス・デ・アンダルシア”のサイトhttp://www.amigosdeandalucia.jp/main2.htmlの「支倉使節、日西友好の始まり」ページに詳しく書かれている。帆船建造のきっかけとしては、「スペインのビスカイノ将官はフェリペ三世の命令によって、日本の西部に位置すると言われていた『金と銀の島』を探しにスペイン大使と共に東方に出航しました。二ヶ月の間当てもなく『金と銀の島』を探したビスカイノは、途中で船が嵐で大破して帰国できなくなったため1611年6月、日本に上陸しました。五ヵ月後、セビージャ生まれの高貴な家柄出であるフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロに感化されていた仙台藩主、伊達政宗の経済的協力を得て新たに帰国用の船を製造することになりました」と書かれていた。
 同ページには「関連リンク集」もあり、ウィキペディア百科事典(英語)の支倉常長のページhttp://es.wikipedia.org/wiki/Hasekura_Tsunenagaなどにリンクが張られている。

「支倉遣欧使節団」は、1582年に長崎を出航し、1590年に帰国した九州のキリシタン大名たちが派遣した「天正遣欧使節」とよく比較されるが、その要点は「武蔵大学 人文学会雑誌」の「ふたつの遣欧使節の比較再検討」http://e-lib.lib.musashi.ac.jp/Elib/H33-1/004/001.htmlで見ることができる。

宮城県慶長使節船ミュージアム」見学が意外と早く済んだので、帰途、JR仙石線の松島海岸駅で途中下車し、「松島島巡り観光船」http://www.matsushima.or.jp/index_2.htmlを楽しんだ。「観光船」のホームページの「島巡りの歴史」によれば、「支倉遣欧使節団」を派遣した伊達政宗公は、徳川倒幕の野望成就の為に水軍を作る企てもあって、村上水軍発祥の地(現在の瀬戸内海、四国)から48名の人員を選抜し松島へ連れて来て水軍を作ろうとしたようである。
ここにリンクされていた「伊達政宗歴史館ホームページ」http://www.date-masamune.jp/にも「支倉常長をローマに派遣」というページが設けられていた。 
☆右上の写真は 復元船 サン・フアン・バウティスタ号

支倉常長 慶長遣欧使節の真相―肖像画に秘められた実像

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クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国

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