オーストリア海軍の歴史 その4

日本海軍はオーストリア海軍と2度戦ったことがある。今日は、その2度目についてふれよう。その舞台は地中海に転じる。また、戦ったというよりも一方的に潜水艦から魚雷攻撃を受けたと言った方が正確だろう。
第一次世界大戦前から、オーストリア海軍はフェルディナント皇太子の強力なバックアップもあって海軍力の増強に努め、21,500トン級のテゲトフ級戦艦を4隻建造し、潜水艦隊を新設した。
 「サウンド・オブ・ミュージック」で有名な“トラップ大佐”も、大きな可能性を秘めた潜水艦に魅了され1908年に念願の新設された潜水艦隊に配属となった。1910年には新造潜水艦U-6の艦長となり1913年までその地位にとどまる。
 第一次世界大戦開始後の1915年4月にU-5の艦長に転任、9回の哨戒任務に就く。1915年10月には、フランスから捕獲した潜水艦Curieを改装したU-14を任され10回の哨戒任務に就く。1918年5月には少佐に進級し、コトル湾(現モンテネグロ)の潜水艦部隊司令官となる。
戦争中に、トラップ大佐は12隻の貨物船(計45,669トン)とフランスの巡洋艦「レオン・ガンベッタ」(12,600トン)、イタリアの潜水艦Nereide号(225トン)を沈めた。その功績により「マリア・テレジア騎士十字勲章」を授与され、英語のナイトに近いRitterのタイトルを得た。
ナチス・ドイツ海軍がトラップ大佐を現役復帰させようとしたのも、第一次世界大戦の撃沈王としての名声を利用しようとの思惑があったからのようだ。
 トラップ大佐についてはWikipedia のGeorg Ritter von Trapp(英語) http://en.wikipedia.org/wiki/Georg_Ritter_von_Trapp に写真入りで軍歴が紹介されている。
 また、第一次世界大戦中のオーストリア海軍については「軍事板常見問題」というサイトの「海軍関連」http://mltr.e-city.tv/faq15e.htmlのページに詳しく、トラップ大佐の軍歴やオーストリア海軍艦艇の一覧表、主要海上作戦の推移などが綴られている。

さて、日本海軍とオーストリア海軍の2度目の戦いについてはWikipedia 日本語版の「日英同盟」の項http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%8B%B1%E5%90%8C%E7%9B%9F に詳しく書かれている。以下、長くなるが引用させていただく。
 「大戦後半欧州戦線で連合国側が劣勢になると、イギリスを含む連合国は、日本軍の欧州への派兵を要請してきた。これに対して親独派が主流の日本陸軍は、派兵を頑なに拒否した。しかしながら、ドイツ・オーストリア海軍Uボート及び武装商船の海上交通破壊作戦が強化され、1917年1月からドイツおよびオーストリアが無制限潜水艦作戦を開始すると連合国側の艦船の被害が甚大なものになり、イギリスは日本へ、地中海へ駆逐艦隊、喜望峰巡洋艦隊の派遣を要請した。直接的に何の利益も生まない欧州派遣を最初は渋っていた日本政府も、日本海軍の積極的な姿勢と占領した膠州湾租借地南洋諸島の利権確保のため、1917年2月7日から順次日本海軍第一特務艦隊をインド洋、喜望峰方面、第二特務艦隊を地中海、第三特務艦隊を南太平洋、オーストラリア東岸方面へ派遣した。

 中でも地中海に派遣された第二特務艦隊の活躍は目覚ましかった。大戦終結までの間、マルタ島を基地に地中海での連合国側艦船の護衛に当たり、イギリス軍艦21隻を含む延べ船舶数計788隻、兵員約70万人の護衛に当たった。そして、被雷船舶より7,075人を救助している。日本海軍が護衛に当たった『大輸送作戦』により、連合国側はアフリカにいた兵員をアレキサンドリア(エジプト)からマルセイユ(フランス)に送り込むことに成功し、西部戦線での劣勢を挽回し、連合国側勝利に大きく貢献している。

 特に、地中海での作戦を開始した1917年4月9日から1か月と経たない5月3日、駆逐艦『松』と『榊』はドイツUボート潜水艦の攻撃を受けたイギリス輸送船トランシルヴァニア号の救助活動に当たり、さらに続くUボートの魚雷攻撃をかわしながら、3,266名中約1,800人のイギリス陸軍将兵と看護婦の救助に成功した。これ以前、救助活動にあたったイギリス艦船が二次攻撃で遭難して6,000名の死者を出したことにより、たとえUボートにより被害を出した船が近くにいたとしても、救助しないということになっていた。そのような状況での決死の救助活動であり、以来、日本海軍への護衛依頼が殺到した。後に、両駆逐艦の士官は、イギリス国王ジョージ5世から叙勲されている。

 ところが、それからまた1か月後の6月11日、駆逐艦『榊』はオーストリア海軍のUボートの攻撃を受け、魚雷が火薬庫に当たったため後ろ3分の1の機関室を残して一瞬のうちに爆発し、すっ飛んでしまった。この攻撃により、艦長以下59名が死亡した。

 第二特務艦隊は、駆逐艦榊の59名を含み78名の戦没者を出した。これら戦没者の慰霊碑が、マルタの当時のイギリス海軍墓地に榊遭難から1年後に建立された。慰霊碑はイギリス海軍墓地の奥の一番良い場所を提供され、当時、日本海軍の活躍をいかにイギリス海軍が感謝していたかがわかる」

以上に引用させてもらったことを補足すると、Wikipedia 日本語版の「日英同盟」の項では、オーストリア海軍のUボートが(クレタ島沖で)日本の駆逐艦「榊」(595トン)を攻撃し、大破させたという説をとっている。これに対してはいくつか異説もあるようで、魚雷を放ったUボートオーストリア海軍かドイツ海軍かはっきりしないという主張もある。
 機会を見つけてオーストリア海軍史の文献を調べてみたいと思うが、この魚雷を放ったUボートが当時、アドリア海と地中海で戦っていたオーストリア海軍のUボートの艦長であった“トラップ大佐”の艦である可能性もあるのだろうか。

 デジタルニューディール事務局のメールマガジン「DND大学発ベンチャー支援情報 」2005/02/23 http://dndi.jp/mailmaga/mm/mm050223.htmlや「駆逐艦榊の被雷」http://homepage3.nifty.com/hscedoyashiki/edoyashiki/edo_01/edo01_damaged_of_sakaki.htm にも興味深い記事がある。また、The Japanese Squadron in World War I and My Grandfather http://photo.www.infoseek.co.jp/AlbumPage.asp?un=158381&key=1314034&m=0には、「榊」乗員のお孫さんが12点の写真を公開している。

 NHKが制作した「20世紀の映像」の第2巻「大量殺戮の完成」に「地中海に向かう日本艦隊」が船上で相撲に興じる姿が映し出されていた。舳先に菊の紋章がついているので、駆逐艦ではないはず。おそらく、第二特務艦隊旗艦の巡洋艦「明石」(2,800トン)だろう。
 「20世紀の映像」の第2巻には、「転覆寸前のオーストリア軍艦」の実写フィルムも出てきた。戦艦が正常な状態から、完全に横転し沈没するまでを捉えたものだが、多くの水兵が船の縁から海中に没していく姿まで映されていた。
 オーストリア海軍に関するサイトK.u.K. KRIEGSMARINE http://www.kuk-kriegsmarine.at/ を見ると、この戦艦はテゲトフ級戦艦の4番艦「聖イシュトヴァン号」(21,500トン)のようだ。1918年6月10日の払暁に海の上の宿敵でもあったイタリア海軍の魚雷艇が放った2本の魚雷によってクロアチアの沿岸に沈められる場面らしい。

NHKスペシャル 映像の世紀 第2集 大量殺戮の完成 [DVD]

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特務艦隊

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